浄蓮寺の古い過去帳には、歴代住職の没年や江戸時代中期のお寺の再建のようすが詳しくしたためてあります。

 初代住職の日與(にちよ)大徳(だいとく)の没年は寛永8年(1631)5月2日。徳川家康が江戸幕府を開いてから28年後のことです。開山当時の記述がないため、推定では、諸宗諸本山法度が制定された元和元年(1615)前後ではないかと考えられます。初祖没後百年後の元文元年(1736)浄蓮寺古過去帳が編纂されます。当山門前の古い題目塔は元文4年(1739)に建立され、そこには、17戸の檀信徒名が刻んであります(写真)

こうした檀信徒は秋谷・成島・星野・堀越などの姓をもっていることから、土地の豪族が、信徒集団を形成し、この年代から当山は徐々に力をつけていったものと考えられます。

 

永い当山の歴史のなかで、14世の()足院(そくいん)(にっ)(とう)上人(しょうにん)の時代になってさらに大きな躍進をとげます。時の大檀越・秋谷津左衛門の土地寄進により、

境内地が現在の敷地に拡大されます。宝暦10年(1760)から11年にかけ

て、当山の旧本堂・庫裏の建設事業が行われました。その様子は旧過去帳

に詳しく記載しています。この建物は、昭和50年に現住職が新本堂を建設す

るまで、212年間存続しました。

(写真は昭和40年代の浄蓮寺旧本堂)

江戸時代の中期以降になると、当時宗門で眼病平癒に霊験あらたかだった日朝上人を奉安し、一躍「野々下の日朝さま」として江戸市中をはじめ近郷近在の信徒の参拝を受けるようになりました。江戸時代の末ともなると、江戸から高瀬船で加村河岸に着き、野々下日朝さま→駒木お諏訪さま(成顕寺)→平賀本土寺を参拝するツアー

があったといいます。眼病平癒を祈願する信者やいろいろな願いごとを祈願する人々によって、絵馬が数多く奉納されました。古老の話では、明治期まで当山には日朝さまを祀る絵馬堂があり、奉納された絵馬はお堂の内部に掲げられました。絵馬堂の老朽化により、日朝さま尊像は奉納絵馬とともに本堂に移されました。これらの絵馬は200数十点におよび、昭和61年に一括して流山市の有形民俗文化財の指定を受けました。当山が「絵馬の寺」といわれる所以です

明治以降の当山運営は厳しさを増します。廃仏毀釈などの影響を受け、さらに、昭和20年の農地解放が追い討ちをかけたのです。こうした苦境の時代にあって、昭和17年から48年まで当山を護持したのが先代37世加歴の矢島妙豊尼(写真)でした。法華経の精神にのっとり、誰でも平等に、公平に檀家づきあいができる大衆路線の運営は、妙豊尼によって基礎づけられたものです。現住職一家は、妙豊尼と入滅までの5年間起居をともにし、お寺の将来設計について語り合ったものです。妙豊尼の命日は昭和48年3月7日。法名は「妙覚院日豊法尼」です。


 昭和48年に、妙豊尼から浄蓮寺の法燈を継承したのが、先代住職である日順上人(世古大竜)です。上人は、妙豊尼の精神を受け継ぎ「だれでも気軽に相談できるお寺」をモットーに、積極的に布教活動を行いました。特に、寺報や新聞作成など、文書による伝導活動に最も力を注ぎ、数々の著作を残しております。また、流山市役所奉職時に得た、多業種の方々との人脈を寺院運営に生かし、檀家数360世帯を越す浄蓮寺へと大躍進させました。日順上人は、諸堂整備も積極的に行い、当時草葺だった本堂庫裏の改修増築、先師墓地の整備等、その業績は数えきれません。そのため、当山中興の祖といわれています。



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